あしたの、喜多善男


好きで視ているドラマだけど。お人よしでどうしようもない男が(何とも言えない魅力を醸し出しながら)自分を利用しようとして偽りで結婚してくれた女性と、ほんの一時だけ、気持ちを通じ合わせられたことだけを支えにして死んで行こうとする物語だ。そういう考え方のどこがどう好きかなんて理解してもらおうと思わない。

 何の脈略もないような話の飛び方をするが、私がここで何度か取り上げているアマオケ「ムジークフロー」のコンマスさんのブログを今回も引き合いに出しておこうと思う。

「生甲斐の喪失は父母の死よりも重い」

 そのコンマスさんは表題では“生甲斐”という単語を使っているが、本文で「それは伴侶のことだ(その伴侶の意味も広義でちと深い)」とおっしゃる。御意である。正直に言えば、私にとってRX−7もオーディオいじりも天文学も伴侶の重さに比べたらどうでもいいことだ。生きている時間を埋める暇つぶしである。このうちのどれがなくなっても、私が死ぬことはないだろう。でも伴侶を失ったら生きている自信はない。それは間違いない。困る・・・とても困る。それがわかっているから暇つぶしが必要だし、伴侶がいるから暇つぶしに傾倒もできるのだと思う。両親への良心の呵責に強く苛まれながら独りでいる。

 他人にわかってもらおうとは思わないが、自分が考えていることの証拠として書き留めておくことにした。

Posted: 水 - 3月 12, 2008 at 12:18 午前            


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